2009.12.18

第8回~売れなかった時代

 平成5年に現社長の昇は梅山豚事業を引き継ぎました。
 当時農場の種豚は、大型で活発な白豚(LW)が大半を占めていたので、しわくちゃでのろまな梅山豚は肩身が狭そうにしていました。
 産まれてきた梅山豚の子豚達も、白豚の子豚達に混ざって飼育されていたため、餌が十分に食べられなかったり、小屋の中の寒いところに寝かされたり、いじめられたり・・・・梅山豚の子豚達は生育不良で病気になったりと、出荷までコンディション良く育たないことが多かったのです。
 生育不良のため出荷数が少なく、脂肪が多いため歩留まりが悪く、しかも価格が割高な梅山豚は売れませんでした。牧場開きに参加されたファンの方々に販売する以外に、いくつかの自然食宅配会社が定期購入してくれただけでした。
 このままでは梅山豚は続けていけなくなる。そう思った昇は白豚を処分して梅山豚専業となる決心をしました。当時農場を手伝ってくれていた近所の方に理由を言って退職してもらい、80頭いた白豚の種豚を手放し、規模を大幅に縮小しました。
 60頭の梅山豚種豚からの再スタートは言葉では言えないくらい厳しいものでした。
 一方、その頃始まったリサイクル飼料事業は、昇が筑波大学大学院環境科学研究科で食品工場の実地調査をしたことがきっかけでした。特に麦茶の粕(大麦)の飼料化は今まで誰もその飼料価値を見出せていなかったものでした。
 梅山豚だけでは食べきれない量の麦茶の粕が集まり、梅山豚が売れないこの時代に、麦茶の粕を酪農家や肉牛農家にも販売して売上を稼いだりもしました。
 後々リサイクル飼料が梅山豚の味の決め手となることはこの時点では解っていません。「少しでも赤字を少なくしたい」昇はそんな気持ちでした。

麦茶粕の袋詰め作業をする当時の塚原
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